レンドルミンとトリプタノール。これが平生、寝る前に服用する睡眠導入剤。もう十年近く飲んでいる。
以前のきつい不眠時は、これにコントミンやレキソタン、んーと、ほかになにかいろいろあったが、思い出せない。ま、それくらい多くの種類を処方されてたってこったね。
二年前、不眠症と手酷く苦い経験で鬱状態となり、精神病院に三ヶ月入院した時は、睡眠薬だけで七種類あった。
牛でも眠るよ、とドクターに言われたけど、熟睡したな、という満足感はなかったな。
無論、人間なんだから、眠らないと死んじゃう。
だからどこかで確実に眠ってはいるのだろうけど、なかなか入眠できず、睡眠しても浅く、すぐに覚醒してしまう。
熟睡感がない、というのが一番理解しやすいかな。
死なない程度には眠っているのだが、その質たるや、極めて貧弱。ノーテンファイラ。ガキのころのような墜落睡眠、一気通貫、腹が減って目が覚めるといった、上質このうえない睡眠は望むべくもない。
人はだれでも一日のうち、最低六時間は寝床のなかにある。
無駄である、とオイラは拒否したいのだが、残念ながらそれは出来ない相談。
ならばせめて上質な睡眠を手に入れたいと思う。
酒飲んで、熟睡すりゃいいじゃん、とよくいわれる。
申し訳ないが、これは不眠症を経験した事ない人の、想像上の処方箋だね。
睡眠の質が更に悪くなる、と申し上げる。あまり覚醒はしなくなるが、そのかわり、ずっと悪夢に追いかけられてる。酒精の薬理作用が、抑圧された恐怖や不安といった汚穢を解放してしまうんだろう。
それに、酒の力は薬より数段強くて、翌朝はお約束な二日酔い。
アスピリンと太田胃散のお世話になってしまう。
で。
今だに不眠だけは残っている。
しかし、鬱病とアルコール依存で二進も三進もいかなくなり、精神病院に入院した頃を想起すれば、この程度の今は、平穏そのものといえるかもしれない。
まぁ、これからのハナシはヘッポコオヤジの三流鬱病患者記録みたいなもんだな。
繰言、と思って読んでいただければよろしい。
「典型的な鬱病ですね…」
静かなクラッシクが流れる心療内科の診察室。ドクターはオイラをしっかり見据えてそう言った。
やっぱりな、欝かぁ、スッと胸に落ち、妙な納得感が広がった。
「できれば入院してゆっくり静養する方がいいんですがねぇ、入院できますか?」
え?入院?
入院=精神病、つまりキチガイじゃないか。オイラは狂っちまったのか?ウソだろ?少しだけ欝傾向なだけなんだろ?
「いや、えーと、やっぱ、マズイっすよ、それは。だって、その、アイツはキチガイかい、とか思われるのはイヤですよ。通院と薬でなんとかなりませんか?」
ドギマギしながらドクターに尋ねた。
「個人差が大きいですからね、薬だけで治癒できる方もいらっしゃいます。しかし入院して一切のストレスを遮断するのが一番なんですよ。それにどうやらあなたは酒精依存も抱えていらっしゃるようだ。断酒の意味でも是非、入院をお勧めします」
なんてこった、こういう展開は予想してなかった。弱ったな。
あー、一杯キュッとやったら、冷静になれるのにな。
カバンのなかにウィスキィが入ってたんじゃないかな?
「あの、少し考えさせてくれませんか。家族や上司にも相談しなくちゃいけないし」
とりあえず口の端に上った言葉で、その場を誤魔化した。
絶対、入院なんてしない。
だってオイラはキチガイじゃないし、酒精依存でもない。
冗談じゃないよ、少し気分がすぐれない、眠れない、人よりちょっと多く飲むだけじゃないか、オイラがキチガイであるはずはない。
「そうですね、よく相談してください。でも鬱病の治療には薬より入院なんです。とにかくストレスを遮断する、これが最善なんです。そこをよくお考えになって、判断してください。週末にでも結論をいただけますか?」
「ええ、わかりました。週末に必ず参ります」
診察室を出た途端、頭が急にボンヤリしてきた。
いけない、こういうときは、とにかく一杯のまなきゃダメだ。
オイラは昼間からあいている飲み屋に歩を進めた。
カウンターにぶら下がるようにビールと焼酎を胃袋に入れると、頭のボンヤリが醒めてくる。周りの情景がありありと、画然と視界に入ってくる。
オイラがキチガイ?
ヘッ、笑わせるんじゃないよ。
酒精は胃の底をキュッと引き締め、腸から肛門が暖かくなる。
スイッチを捻るように、思考回路が滑らかに動き出し始める。
酒精による妄想が膨らんでいるだけかも知れないが、頭から指先、血がのびのびと回りだす。
疲れてるだけだ。
不眠は、もう5年くらいつきあってるしな。
酒は、ああ、これがなきゃ思考が平滑ならしめられぬ。
だから、病気じゃない、疲れてるだけだ。
あの酷く苦い出来事は忘れてしまえばいい、それだけだ.。
酒は嫌なことを忘れさせてくれる。酒精の摂取が進むと、分析的に過去を思い出せるようなってくる。自分が抑鬱的状態に落ち込むなんて、想像できない。
いつも陽気で、バカ話と、ドンチャン騒ぎが大好き、オイラもまわりも鬱などとは無縁、そう思ってたろ。
しかし、ドクターは立派な鬱病と診断した。
突然の雨はさけられない。
同じように、目の前にある奈落に気付かず、いつの間にかオイラは暗い底なしの負のスパイラルに落ち込んでいる、つーことかね。
最初は不眠から始まったんだったな。
四十歳過ぎからだろうか、睡眠が困難になってきたのは。
「あー、オトコにもあるんですよ、中年になるころ睡眠と覚醒のリズムが狂うことがね。女性が閉経で体調崩すのと一緒です。え?眠れない?じゃあ、睡眠導入剤出しときましょう。最近の薬は依存性がないですから、眠れないと思ったら、頓服的に服用してください」
不眠で初めてかかったドクターは、商売人のように愛想がよく、ツルリと顔を撫で、こちらを見ることもなく処方箋を書き始めた。
「あ、お酒と一緒に服用はNGですからね。薬理作用が強まってよくないです。注意してくださいね」
フーン、酒と一緒だときつくなるのか、つまりより効くってこったな、なるほどね。
その夜、オイラはウィスキィのストレートで導入剤を流し込んだ。
久々に爆睡した。
熟睡した、という満足感が満腔を満たしていた。良質な睡眠が、こうも素晴らしいものであったか、改めて身に沁みた。
初めて処方された薬はレキソタンという薬だった。
このレキソタン服用と時を同じくして、オイラは破滅的飲酒と鬱への坂道を転げ落ち始めた。
破滅的飲酒の理由はなんだったけ?
さぁ、なんだったかな。きっかけはこれ、といえることが思い当たらない。
そんな記憶をとつおいつほじくりかえしていると、酒の入ったコップはすぐに空になり、キャッシュ&デリバリーのコップが段々堆くなり始める。
ふかす煙草の煙が酒精臭くなり始めている。
思考回路が破れだし、シナプスがてんでんばらばらになってくる。
オイラは酒精依存じゃない!
ましてや入院のひつようなキチガイじゃない!
依存かどうか、この一杯で占ってやろうじゃない!
いま、この飲み屋でオイラはきわどいバランスの上に立っている。
右に落ちれば破滅的飲酒、左に落ちれば辛うじて人の尊厳はある。
落ちるのは右か、左か。
落ちる方向で、今夜の末路が決まる。
払暁。
胸一杯の嘔吐感で目覚めた。
トイレに駆け込み、吐く。何度も。
出すものがすっかりなくなると、酸っぱい胃液が逆流し、鼻腔まで酸に侵されている。
それでも嘔吐感は止まらない。
最後にコールタール状のものをヌラヌラと吐瀉した。
それは便槽の水を赤黒く染め上げた。胃酸で凝固した血であったのだろう。
ヨロヨロと流し台に近づき、大田胃散を生ぬるい水道水で流し込む。酸が中和され、少しだけ気分が良くなる。
(やっぱり飲んじまったな)
後悔なんてしないけど、結局、破滅的飲酒に墜落してしまった。どうやって帰宅したか、まったく記憶はない。
気付くと、きちんと服を脱ぎ、寝巻きに着替えていることが妙におかしい。
生あくびと強酸性のゲップが立て続けに出、体中に腐敗臭がする。
今になって思うが、あの腐敗臭こそ、アルコール依存の証書だったようだ。
その匂いがひどく気になるし、とてもそのまま眠れそうにないので、シャワーを浴び、睡眠導入剤を缶ビールで流し込む。
(ま、いいや、どうせ今日は日曜だし…)
目覚めているの、眠っているのか、夢をみているような、あるいは論理的思考を展開しているような、実に収まりの悪い混濁の時間が過ぎていく。
何時なのかな?
あー、七時なんだ。
起きよう、どうせ横になってても、悪夢に追いかけられるばかりだからな。
顔を洗いに洗面台に立つと、鏡の中にカサカサの皮膚をたるませたオッサンがいた。顔全体が膨張し、特に目の周りは、まごうことなくある種の破綻を窺がわせる。
ハハ、こいつがオイラかい。
情けない顔してやがんな。
歯ブラシを口に含み往復させると、また嘔吐感がこみあげてくる。
それを堪えつつ、倍ぐらいに膨れ上がり、真っ白に苔の生えた舌をゴシゴシと磨く。
間断ない嘔吐感。
(ウーッ、早く一杯入れてやんなきゃ、また吐いちまうぜ)
そそくさとタオルで拭うと、ウィスキィを瓶のままラッパ飲みにする。
酒精は喉を焼き、ゆっくりと細胞を加温させながら胃壁に滑り落ちてきた。
じんわりと胃の底が暖かくなる。
口から肛門への一本の管が、緩く暖かくじっとりと湿ってきた。
酒精依存。
なるほどね、酒精依存ってなぁ、今のオイラのことなんだろな、きっと。
白濁の進み始めた脳細胞でも、こう結論付けた。
ある人から、体痛めつけて、金と時間を浪費し、そののち暗澹たる気分になるばかりなんだから、酒なんてやめちまいな、といわれた。
確かにね。
理屈からいや、そうなるわな。
しかし、やめられない。
だから酒精依存ってことなんだろうが、もともと酒に理屈をつけて飲んでるわけじゃない。
むしろ、人間の馬鹿さ加減、んー、どういやいいかな、あ、そうだ、昔、植木等サンが歌ってた、判っちゃいるけどやめられね、あれだな。
オイラはね、酒がいかに下らない飲み物であるか、日々新たに認識を深めてんのさ。
日々認識しすぎかもしんないけどね。
それにオイラは欝であるとか、酒精依存であるとか、そのことにほとんど拘泥していなかった。
むしろ鬱の酒精依存である自分自身を素直に認めていた。
なぜなら、依存は私の血であり、鬱は私の精神だからである。いずれも切り離し不可能な自らの一部なのである。
だから、時に人から「アル中の欝野郎!」と罵倒、一刀両断されても、「へへ、おかげさんでね」と韜晦するだけだった。
だってそうだろう。
「オイラがアンタに迷惑かけたかね?」
あるいは、人にオイラの鬱と依存の履歴を公開して、「気をつけなよ」と耳に心地よい言葉を賜ったとしても、それ、単なる同情だろ?
その裏に潜む感情は「ああはなりたくないねぇ」ってとこじゃん。
ヘンッ、おためごかしのベタベタ関係はいらねぇやい。
さらにいうなら、酒精依存である自分をオイラは肯定していた。
依存は社会的には糾弾されても仕方ない習慣である。
しかし、いまある自分自身を肯定するとしたら、誰でもない、オイラしか理解肯定しえないじゃないか。
依存なんですけど、認めてくれません?なんて、そんなヤボ、誰がいえるかい。
となると、こうなる。
屈託と鬱屈がますます累々と層をなし、その重みにいつか耐えかねてしまう。出口がわからなくなる。人はさらに破滅的飲酒であるとか、抑鬱状態へと逃避してしまう。それが楽だし、居心地がすこぶるよろしいのである。
平生の心持でいることが難しいし、自己憐憫のぬるま湯で、自分をチクチクと責め、絶望へのスパイラル、即ち、その墜落感に自分を委ねる方がまだ正気でいられそうな気がする。酒精、不眠、不安、まぁナンでもよろしいが、その病的(本人は病的とは金輪際思ってないのだけど)な状態は、鬱病者の逃げ帰るべき無主の聖域、すなわちアジールなのである。
ドクターの次の診察、つまりその週の週末まで、どのようにくらしていたかほとんど記憶にない。
今振り返っても、不眠も鬱も依存も一番最悪の時期だった気がする。
こんな状態だった。
朝、起き抜けに隠れてこっそりウィスキィを流し込んで出社する。
いや、その前に会社に行く、そのことが面倒で面倒でたまらない。
これだけじゃないな。
朝起きるということ、顔を洗うということ、背広に着替えるということ、駅まで歩くということ…とにかくすべてのことが億劫だし、なにかやろうとしても、掛け声をかけて始めないと体が動いてくれないのだ。
会社に出たちころで、営業回り、報告書、売上げのPC入力、どれもこれもやりたくない。
なにをするにしても、消えかけたなけなしの気力に活をいれ、なんとかかんとか一歩をふみだすという有様だった。
(あーあ、なにもかもおっ放り投げて、酒飲みてぇな…)
となれば。
そうだよ、オイラは昼間から開いてる酒屋で、飲んでた。
無論、このときだけは億劫がりもせず、スイスイと足が進んだ。
ある日、会社の上司に呼ばれた。
「オマエなんか最近おかしいな」
「え?そうすか。変わらないと思いますが」
「馬鹿いうな。オレの目は節穴じゃないし、鼻も利くんだ。オマエ、飲んでるな」
「エッ」
朝から飲んでるんだから、上司でなくても気付くだろう。
とりわけ鼻の利く女性社員にばれぬはずはない。
相手に気付かれる、そのことにすら想像力が及ばなくなっている。
「病院には行ってるのか」
「…」
「どうなんだ、はっきりいえ」
「えー、その、しん、心療内科に…ちょっと…」
「診断はどうなんだ」
「鬱病…です、あ、軽度のアルコール依存とも診断されました」
「入院とか勧められたろ?」
「ええ、その通りです」
「休め」
「え?」
「休め。入院しろ。第一、そんなんじゃお客さんのところに出せるわけなかろう。会社の恥だ。治るまで入院しろ。これは業務命令だ」
恥。
恥かぁ。
そーだろーなー。
その程度の理解力は残ってたようだ。
それにこのところますます眠れないし、憂鬱な気分が抑えがたい。
なにかやろうという動機付けが起こらない。
帰宅すると、飯も食わずに酒ばかり飲んでいた。カウチに横になり、ボトルを胸にだいて生息としていた。TVは点けているが、なんにも見ちゃいない。
言葉が理解できない、いや「理解する」ということがどういうことだったのか思い出せない。
いつのまにか放送は終了し、ホワイトノイズのザーザーという画面になっても、その白っちゃけた画面を眺めていた。呆然と。
その頃、オイラは寝具の上で毎夜、強烈な自死の願望に苛まれていた。
てんで眠れやしないから、余計に想像が加速されたともいえる。
紐一本ありゃ、簡単だな。
でも苦しいだろうな。
リスカっていう手もあるな。
でも痛いだろうな。
飛び降り?ガス?薬物?
どれも苦しそうだな。
痛い、苦しいで実行を諦めるんだから、死は想像上の産物程度だったのかもしれない。
しかし、死はちょっと踏み出せばそこにある、身近な存在に思えてきた。
そのうち眠れない夜は白々と明け始め、とにかくシャワーだけ浴び、ウィスキーを流し込んで会社にフラフラとでていった。
通勤電車は相変わらず混んでいた。
他人に押され、踏まれ、香水や口臭をいやになるほど嗅がされ、頭の中ではアルコールまみれのシナプスが発酵しはじめた。